※ネタバレ 「イノセントデイズ」感想

早見和真著 「イノセントデイズ」

元恋人の家族が住むアパートに火をつけ、妻と双子の子供を殺害したとして死刑囚となった田中幸乃。「死刑で当然」だと非難の目を向ける世間とは裏腹に、彼女を様々な時点で見つめてきた人たちの視点から彼女を少しずつ紐解いていく。

 

 

内容はざっとこんな感じ。本屋で気になって手にとって併設されたカフェで読み始めたら止まらない止まらない。最近こういった体験をすることがあまりなかったので新鮮。以下感想。これから読もうかなとかちょっとでも思った人は絶対に見終わった後に私の記事を読んでください。よろしくお願いね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 一切合切私とは重なることもなく共感するに乏しい田中幸乃の人生、であったにも関わらず、どこかで彼女が抱いた絶望を私は知っているような気になってしまう。

 

 

 文中にもある通り、彼女は「人とのつながり」を最後まで欲していた。それは一時的なものではなく、永遠に続くもの。必要とされ、必要とする。たったそれだけでも、彼女にとっては射し込む一筋の光だった。必要とされて、胸が満たされたような気持ちになっても、ことごとく裏切られていく。救いがないのがフィクションだと豪語したって構わないのだけど、ここでいう裏切りは日常を生きる人々にとってそう遠くにあるものではないと私は思っている。

 

  人の考えや価値観などは流動的で、多少のことで動き、時に壊れる、脆いものである。反対に、ごく微量の糸で即座に繋がることもある。人間はそういった脆弱性や柔軟性を秘めているものである。それは私が今までの出会いや別れの中で感じたことでもあるし、きっとこれからも何度も感じることなのだろうと思う。そんな諦めに似た失望の中を生きていきながら、どこかで永遠にも似た関係性を作っていくことができる人もいる。できない人もいる、ということなのだと思う。幸乃は圧倒的に後者だし、更には作りたいと強く、強く望んだにも関わらず、作っていくことができないどころか、何度も奈落の底へ突き落とされてきた。ついには「人とのつながりに触れること」への彼女の失望、そして恐怖は死をも上回る。

 

 

『彼女が死ぬために生きようとする姿を、この目に焼きつけなければならなかった。(p444)』

死刑執行の場へ連れて行く役目を背負った刑務官である佐渡山瞳の感じたこの責務は、この一文を前にした読者にもまた課せられるものだっだと思う。追って、彼女の生い立ちと人生を知り、どうか”彼女に救いを”と願った人も少なくないはず。私は読みながら何度もそう強く感じていた、誰かが助けてあげてくれれば、彼女は、もしかしたら。読み進めて、上記の文に辿り着いた頃にようやくわかる。生きることが救いだなんて、ただの決めつけに過ぎないと。誰かが生きて欲しいと願っているのならば勝手に死ぬのは無責任だ、とはここまで読んだら口が裂けても言えないだろう。彼女の大掛かりな自殺を止める手立てを見つけることは一切かなわない。彼女の死を、この目に焼きつけなければならないのだ、登場人物も、いち読者もまた。

 

 死、中でも自死を圧倒的な悪と見なす世論がある。死が絡めば人は手痛く罰せられるし、どこかでできる限りは触れるべきではないものとして扱っている部分も多々ある。死は救済ではないとの考えが圧倒的であるし、間違っても迎合されようものなら弾圧されるのが世の中である。当たり前なのかもしれない。そんな規範意識が覆る日は願わくば来て欲しくない。がしかし、この場合、田中幸乃の死については、どうか、その意識が覆ったって、ーーー

 

 

死を迎え棺に入れられた幸乃を見つめ、佐渡山瞳はこう述べる。

『少女のように微笑む彼女に、私はどんな言葉をかけたらいいのだろう。「おつかれさま」か、「さようなら」か。

 きっと「おめでとう」なのだと知りながら、私はその言葉をかみ殺した。(p449)」

 

 この文を見て堰を切ったように涙がこぼれた。彼女が可哀想だとか、そんな稚拙な同情などではないと言い切ろう。彼女はようやく救われたのだと思うと、思わず立ち上がって拍手を送りたいような、そんな気持ちで一杯だった。

 

    願わくば、田中幸乃、彼女が、死を迎え無の中を漂う時、喉から手が出るほど望んだ、”人とつながることの暖かさ”、”この愛はきっと途絶えることはないと確信する安堵”を胸一杯に抱きしめていられますように、と、祈りにも似た救済を願わずにはいられない。